生活リズム、自己肯定感
2015年1月19日 成田正明
15年ほど前から毎朝グレープフルーツ半個を食べる習慣になり、今に至っている。
最初は妻が朝、食卓に出してくれたところから始まった。
半分に切れたグレープフルーツをスプーンですくって食べるのである。
いやでいやでしょうがなかった。
ちょっとしずくが目に飛んでくると死ぬほど痛い。顔にしずくが飛んできただけでも飛び上るほどひりひりする。
「さっさと食べなさい!」と言われながらため息をつきながら食べてきた。
そして15年、いまでは率先して食べるようになった。
なんかこれがないと1日が始まらないような気がする。
出張のときとかもホテルでできるだけ食べるようにしている。
そして「どうも最近のグレープフルーツは甘口でいかん」などと言うようになった。
生活リズムそのものだ。
おかげで体調がいい。
ま、この歳だから体調はいろいろあるが、グレープフルーツとともにいい一日を送っていると言える。
そういう意味でも、ひとつ前のブログではないが「怒られ力」は大切だ、と思う。
でも実は本日はそういう美談ではない。グレープフルーツの個性についてである。
毎日グレープフルーツ半個食べ続けて15年、グレープフルーツのことだいぶわかってきた。
かわいいとさえ思えるようになった。
汁が顔に飛んできても、「また、このグレープフルーツちゃんたら!」という感じで愛おしい。
外国にいって自分の手で収穫してみたいとも思う。
もはやグレープフルーツ博士と言ってもいい。
そのグレープフルーツ、15年で何が分かったかというと、グレープフルーツ外見はどれもまったく同じ色つや大きさなのに、驚くべきことに味や硬さなど一つ一つ全く違うのだ、ということである。
「ああ、このグレープフルーツ最高」、の味にあたったグレープフルーツは、甘みや汁感が最高、残りの半分も明日に取っとけなくて手を出しそうなこともある。
でもそこでこらえて明日に置いとくことで明日朝の楽しみが増える。
ひとつの自己肯定感か。
こんなどれも一見いっしょに見えるグレープフルーツが一つ一つ全く違う個性を持っているのだ。
グレープフルーツがこんなに一個一個違うくらいだから、人間はどうだろう。
ひとりひとり全く違うのは当然だ。
さて最近体のいろんなことで病院に通い薬を頂く。先生は検査し薬を出し、と。でもうーんそうじゃなくて治してほしいのは、ということはたくさんある。
私もひとに対するとき、ひとりひとりが違う、ということを肝に銘じて定型的な対応に陥らないようにしたいと思う。
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